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スマートフォンが誘う快楽 vs. 瞑想の価値
サンガジャパンVol.11  最近は書店で平積みされている本にも“瞑想”を紹介している雑誌や新書が増えてきているように思います。ただそのような本では精神的(スピリチュアル)な実践としてというよりも認知神経科学(脳科学)による研究から導き出された面から紹介する方が多いようです。

  瞑想によって脳内物質(セロトニン)が分泌され、血液成分が正常に戻ったり、うつ病が改善されたり。また継続的な瞑想実践で脳波が劇的に変わることも科学的な実験で判明してきています。瞑想がメンタルヘルスに効果があることをそれらの本は語っています。 

  こうした科学的根拠を背景とした「健康法の瞑想」 が浸透するなか、スピリチュアルな「精神瞑想」は少数派になりつつあるのかもしれません。スピリチュアルな瞑想をひと言で説明することは困難ですが、本来は“直観的な知恵にゆだねる行為”としての意味があるようです。

   自分とは何か?」「神・存在とは何か?」「生きるとは?など、人間しか考えない“根源的な問い”を瞑想によって越えていくといった〈スピリチュアル・スピリチュアリティの実践〉です。瞑想はインド哲学の聖なる賢者(聖賢)、ギリシア哲学の哲学者も行った形而上学、哲学的な営みのなかから生まれた行為でもあります。

  ただ、瞑想が広まっているとはいえ、まだまだ一般的になっているとは言えない現状では瞑想という実際的方法で根源的な問いに向かうよりも“思索”をとおして形而上学・哲学的問題に向かうほうが人気があるかもしれません。

◆違法薬物にまさるスマートフォン快楽

  でも、思索する行為すらも最近はスマートフォン・ソーシャルゲームのようなアイテムが普及している現在、時間を暇つぶしの娯楽で過ごす人が大半を占めているようです。認知神経学では「スマートフォンを使うと脳内快楽物質ドパミンが出る」といわれ、ドパミンは報酬系の快楽物質ですから、いわゆる「スマフォ・ソーシャルゲーム依存」の問題にも繋がります。

  南米では若者の間にスマフォゲームが広がり違法薬物の販売量が減少してマフィアの資金調達が困難になっているなどの奇妙な「依存物変化」問題も起こっているようです。違法薬物を越える「依存」を起こすスマフォは世界・人類共通の悪癖の温床にもなり始めています。

  一部メディアでは、「スマフォはテレビよりも依存性が強い」と報道されているようです。たしかに的を射た報道で、テレビが何も考えずに視聴できるのに対して、スマフォは考えながら操作しなければ「小さな報酬」を得ることはできません。一時期流行った「脳トレ」も、スマフォゲームと同じ報酬系を刺激するゲームのひとつでした。

  テレビは音楽と同じように聞き流せますが、スマフォは見流せないので厄介です。報酬を得るために志向性を持ってスマフォを操作するのですから…。人間は「小さな快感を得るための小さな志向性」というものに弱く、それによって“依存”させられる傾向があります。多大な努力や困難を要するゲームよりも手軽なゲームが受けるのも、人間の多くが怠惰な傾向があることを暗に示しているのかもしれません。

◆スマートフォン依存度を検査してみる

  そのような社会的な人間心理の面からも、瞑想や思索をする貴重な時間を削ってスマフォをしたりしてしまう人が多いのも頷けると思います。もし「スマフォ依存度」を知りたければ自分で実験してみるといいでしょう。

  まず1日、スマフォでウェブに繋ぐこと、ゲームをするを止めてみる。それが出来たら3日、7日と増やしてゆく。またはスマフォを携帯電話に切り替えて同じことを行う。スマフォ依存者の方は不安感が募るはずです。

 人間にとって自分で考えることは知性を発達させるうえで重要な営みです。先日、パシフィコ横浜で行われた「ダライ・ラマ法王 横浜法話・講演」を拝聴しに行ってきました。法王は〈空〉の理論を思索するうえで三人の思想家を紹介しました。ナーガールジュナ(龍樹)シャーンティデーヴァ(寂天)アティーシャ(月蔵)です。


  瞑想によって〈空〉〈無我〉を感じたことはありませんが、思索のプロセスで感じたことはあります。ですから、筆者も“やや小さな諦観”をもっています。思索を続けていると、「たしかに私というものはない」という極致に達することがしばしば起こります。いつもはお茶らけたことを書いていますが、本当に真面目な気持ちで「私はないな」 と感じます。

◆究極的な視点にいたる道

  もちろんそれは仏教・インド哲学でいうところの《世俗的視点・真理》でのことではなく《究極的視点・真理》に立ったときの思索です。このような視点・真理探究方法をインド哲学では〈知性による探究〉といい。“ギャーナ・ヨーガ”または“ジュナーナ・ヨーガ”と言うそうです。知性による探究をする近現代の思想家として有名なのがインドの思想家クリシュナムルティです。クリシュナムルティの語るところは仏教の〈空・無我〉にもっとも近いともいわれています。ダライ・ラマ法王も語るように「科学と仏教には近い関係がある」ようです。
ダライ・ラマ科学への旅 (サンガ新書)ダライ・ラマ科学への旅 (サンガ新書)
ダライ・ラマ 伊藤真

サンガ 2012-04-25


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時間の終焉―J.クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集時間の終焉―J.クリシュナムルティ&デヴィッド・ボーム対話集
J. クリシュナムルティ

コスモスライブラリー 2011-02


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  ダライ・ラマ法王は法話で〈知性による探究〉には“センス”が必要だと語っています。どのようなセンスも人それぞれ異なります。数学が得意な人、美術が得意な人、知的な思索ができない人もいる訳ですから理解できます。もし知性のセンスがなければ「人のためになる行い(利他行為)」をすることを勧めて、生き方を最善のものに創りあげることを目指すことが必要だといいます。

  瞑想によって究極的視点を得ること、利他的行為によって人のためになる行いをすることにどんな意味があるのでしょう。簡単にいえば「“私”という肥大化した幻想を小さくする」という意味があります。無神論者も有神論者も関係なく、スピリチュアリティの探究によって誰にでもいたることができます。

  「私は宇宙に存在する小さな結節点に過ぎない存在で、宇宙によって太陽系によって生かされ、地球惑星によって生かされ、先祖・両親によって発生して、さまざまな人々の活動のうえで生命活動を維持している」と考えるだけでも世界を見る認識は変わってゆきます。
ダライ・ラマ宗教を超えてダライ・ラマ宗教を超えて
ダライ・ラマ14世 三浦順子

サンガ 2012-10-12


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2012.11.11 Sunday | Category[2]スピリチュアル:コラム | comments(0)

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