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『祈りの心身技法―14世紀ビザンツのアトス静寂主義』【書籍紹介コラム】
祈りの心身技法―十四世紀ビザンツのアトス静寂主義最近ブログ記事でキリスト系のもの、特に東方キリスト教に関係する書籍を紹介する機会が増えていましたが理由は僕自身の単純な気分によるものです。キリストの風に吹かれたんでしょうね。ただ、その時の気分も不思議なもので、何気なく興味を惹かれたりする時などは霊達の影響を考えたりしてしまいます。

東方キリスト教
と霊的能力者ダスカロスには繋がりがあると以前書いたとおり、その関連で興味を抱いてダスカロスの訓えたことを調べているのですが。彼の訓えには東西キリスト教を折衷させた面があるように感じています。いろいろ当たってみると異なった側面から霊的思想をみることができますね。

そんなキリストの風(ダスカロスの風)に吹かれている私が今回紹介するのは、久松英二著『祈りの心身技法―14世紀ビザンツのアトス静寂主義』(京都大学学術出版会)です。この著作も東方キリスト教・静寂主義です。この静寂主義という修道体系には興味深い側面があってインドのヨガに似た身体技法を祈りの際に織り交ぜている点。この予備知識だけでも読みたくなってしまうのではないでしょうか?

さて、一般的な日本人が接しているローマ・カトリック、プロテスタント的な西方キリスト教〈身体〉“魂が堕落させられた場”とネガティブに捉えて、人は生まれながらに原罪の身であることを自覚し〈十字架刑のイエス・キリスト〉をシンボルとして〈精神・心〉の昇天を願いキリストであるロゴスを受け入れることに徹するのに対して、本書主題となっている東方キリスト教ビザンティン修道伝統の静寂主義(ヘシュカズム)」では〈身体〉“魂を精製昇華させる場”といったような捉え方をしています。

西洋思想の原型とされているプラトン〈身体〉“魂の牢獄”と捉えていたことは有名だし、西洋的宗教哲学・神学思想(スピリチュアル思想)には少なからずプラトン的な見方が強く浸透しているように思われます。西洋的なキリスト教にあって東洋的な心身を包括的に捉える考え方が強く見られる東方キリスト教静寂主義とは副題にある通り14世紀のアトス修道界修道士グレゴリオス・パラマス(Gregory Palamas)に端を発する修道思想のことで心の静寂(ヘシュキア)」を求め“イエスの祈り”と呼ばれる単純な祈りと共に身体を使った技法で“神を観る”ことを目指す修道体系のことです。

東方キリスト教の修道伝統は古代から連綿と続くものですが、本書では「静寂主義」を検討するため敢えて過去の修道体系の流れに触れずに考察を行っていいます。そのため話の筋が掴みやすく「東方キリスト教・静寂主義」に詳しくない読者にとって読みやすい学術書のように感じました。

静寂主義に見られる“イエスの祈り”は、偶然とはいえ鎌倉時代に新仏教[鎌倉仏教]が興隆していたその頃の日本人の信仰と相通じるように見ることもできます。たとえば、法然・親鸞の南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」や日蓮の南妙法蓮華経(ナンミョウホウレンゲキョウ)」の唱和に見られる単純な念仏に見られるように、静寂主義の祈りと同様、経の簡素化が行われています。

また、静寂主義の志向する心の静寂は、道元らに代表される鎌倉仏教の禅宗の修行実践を彷彿とさせてもいます。それは東方キリスト教“神を観る”ことに傾注してインドのヨガに似た身体技法を行っていたのに対して禅宗では坐禅によって“仏性を観ずる”ことに傾注していたという点です。

静寂主義では、修道者が外面的には孤独な生活を送り、口を閉ざしたままであっても、内面においては落ち着きのない興奮で一杯になりうることを理解し、それを防ぐ3つの方法を掲げていたといいます。アメムリア、ネープシス、プロソケーの3つです。アメムリアとは気遣い、気掛かり、憂慮、期待、恐れ、思い悩みがない状態のこと。ネープシスとは考え思うことからの脱却、思考の脱却のこと心を見張ることプロソケーとは注意、気をつけること自分の心に気をつけること。これらの教訓を眺めると禅宗の修行者が心得て実践している生活態度などに符号するように思われます。

日本仏教では平安時代の密教伝播から鎌倉時代での修行体系の細分化が進んだのに対して東方キリスト教では修行体系の折衷が見られ密教・神秘主義のような秘教的な“先祖返り”のような流れが生まれたと言えるかもしれません。その静寂主義の秘教的でもある修道体系にインドのヨガに似た身体技法が組み込まれているというのは興味深い。東方キリスト教における神との「合一」体験は、インドの神秘主義との多くの符号点を見い出すことができます。

最後に少ないですがグレゴリオス・パラマスの思想の一端を紹介してお終いにします。興味があれば読んでみて下さい(ヨガのことも補遺という形で書かれています)。
神の「本質」である神性と「働き」における神性が一にして、しかも区別されることをパラマスは「神的なるものは一でもあるが、一でもない」とも言う。太陽光線はその本源である太陽そのものにその存在を負っているから、決して分離して存在することはできないが、光線はあくまで太陽それ自体とは区別された存在であり、太陽と同一ではない。神の「本質」とその「働き」の関係もこれにたとえられる。二律背反を堅持しようとするパラマスならではの答えである。(p.239)

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スピリチュアルな想いを形に
2011.11.30 Wednesday | Category[2]スピリチュアル:キリスト的なもの | comments(4)

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2019.09.01 Sunday | Category- | -

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テルさん

お話の中心は、「心の不動(アパテイア)」と禅定の間の基調低音、でしょうか。トマス・マートンが述べているような。しかし共通項があるほど同じ処に差異も見てとれるように思います。

この事についてのわたしの理解はJ.ニードルマン「ロスト・クリスチャニティ」を読んで得たものを超えていないのですが、東洋的な立場からの見解も知りたいですね。
| ほうきさん | 2011/12/10 4:41 PM |
ほうきさん

「基調低音」という言葉の意味がわからないので、お馬鹿な僕がもっと理解しやすい言葉で再度コメントお願いします。あまりに頭がいい言葉で書かれてあって意味が全くわかりません。
| Teru Sun(管理人)さん | 2011/12/10 6:02 PM |
テルさん

すみません(汗)文脈を無視したひとりよがりな文章になっていました。失礼しました。
ヘシュカスムにおいて「心の静寂」と呼ばれるものと、禅での見性のあり方に、どこか共通していると言えるところがあるのではないか、という話を、カトリック僧でありながら同時に禅の修行をしたトマス・マートンの言葉で読んだように思います。
ただ同時に彼としてはカトリック者として、そこで起きることが同一であると言わなかった(言えなかった)と聞きました。キリストに対する信仰なしに、キリスト者と同じ救いに預かれるということは、カトリックの教義に反することになってしまうのだと思います。
その「共通するが同時に異なっている」という状態を、ベース(基調)にある音は共有されているが、音楽全体は異なっている、といういささか分かりにくい話にしてしまいました。
比喩を使って余計にわかりにくくなるというのは問題外ですね…。

上記の話を「ロスト・クリスチャニティ」で読んだのですが、東洋の道の修行者や師はこのことについて、どのような見解をもたれているのでしょう?というのがコメントの主旨でした。
失礼をいたしました。
| ほうきさん | 2011/12/11 12:44 AM |
ほうきさん

ありがとうございます。理解できるように丁寧に書いてくれてありがたいです。本書には東洋のヨーガと静寂主義の比較検討をしている部分がありましたが、「キリスト」という象徴をベースとしているキリスト修行者は「キリスト」にこだわる必要があるので、そこなのでしょうね。いいコメントでした。
| Teru Sun(管理人)さん | 2011/12/11 11:40 AM |










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