プロフィール
開設2007年2月
Twitter Teru_Sun
Gmail


にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ
カテゴリー
おすすめ
おすすめ本(一部 工事中)
スピリチュアル本は数限りなくあります。素晴らしい本を全て紹介し切れませんが一部をこちらで紹介します。こだわりは「百害あって一利なし」。読書が嫌いな方は以下のものを読んでもらえればスピは十分だと思います。

最新の記事
            
ブックマーク
順不同
Google

ブログ内を検索
スポンサー
RSSATOM 無料ブログ作成サービス JUGEM
『キリスト教東方の神秘思想』【書籍紹介】
キリスト教東方の神秘思想ウラジミール・ロースキィ(Vladimir Lossky)著『キリスト教東方の神秘思想』(勁草書房)を記事内で紹介したのは数度に及んでいましたが、この本とても難解といいますか東方キリスト教の神学・信仰・思想を探究した学術書ですので浅学者には太刀打ちできません。かなり読者を選ぶ本だと思います。

先日ブログ内で紹介した仏教の学術書『ブッダのことば パーリ仏典入門』は仏典についての解説書のような形で書かれたものでしたが、本書は東方キリスト教に流れる〈霊性〉について広範に探究している思想解説書のようです。私事ですが部分的にしか理解できていません(汗)。

僕の場合、東方キリスト教に興味をもった切っ掛けは、稀代の霊的能力者として世界に知られたキプロスの賢人ダスカロス(Stylianos Atteshlis) の存在が最も大きいです。本書を読んでいるような学者や正教会信者から見ると彼が説いた訓えはスピリチュアリズムや近代オカルティズム的な思想が含まれている〈異端〉なものだと映ると思います(そう批判をしているレビューもAmazonでよく見掛けます)。

正統と異端の違いを越えてスピリチュアルな探究をする人たちには、こういった正統の学術書がダスカロスの遺した思想研究(?)の際には役立つのではないかと考えたりしています。逆に正統だけを研究されている人にはダスカロスという「20世紀の異端キリスト者」を知ることで新たな地平が広がるのではと思ってみたりもします。全包括的に歩みたいと願っています。

さて、前置きはこのくらいにして気になった部分を抜粋したいと思います。
まずは「霊」について
■第八章 霊のオイコノミア
新神学者シメオンは次のように語っている。「わたし達は神性の偽りのない火を受けとっています。この火について主は『わたしは地上に火を投ずるために来た』(『ルカ』十二・四九)と語られました。この火は霊でなければ何でしょうか。その神性によって子と同一本質である霊でなければ何でしょうか、父と子がそれと一諸にわたし達のうちに到来しそのとき共に観想されるあの霊でないとしたら。」霊の到来によって三位一体はわれわれのうちに宿り、われわれを神化させ、われわれに非被造的なエネルギー――われわれが与る永遠の光・神性――を授ける。だからシメオンによれば恩恵はわれわれのうちに隠されてとどまることもありえないし、また三位一体の宿りが啓き示されないままであるわけがない。この偉大な神秘家はさらに次のように言葉を続けて言う。
「もし誰かが信徒はみな霊を受け所有していたとしても霊を格別に自覚したり経験したりはしないと主張すれば、この人はキリストの言葉をうそだと言って嘲るものです。キリストは霊に関して『永遠の生命に至るまで流れる水の泉』(『ヨハネ』四・一四)と語られた。さらに『わたしを信ずる者はその腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』(『ヨハネ』七・三八)とも言われた。もしわたし達のうちに泉が湧き上がるなら、そこから流れ出る川は見る目をもつ人には必ず見えるでしょう。しかしもしこれらすべてがわたし達のうちに実現しても、それを自覚せず経験もしないというならば、そのときにはすべての実りである永遠の生命も感じられないことになるでしょう。また、そのときは霊の光も見られることなく、結局わたし達は永遠の生命のうちにあっても死んだ者、盲者、感受性を欠いた者として過ごすことになるでしょう。ましてわたし達は現世にあって一層そうした者なのですが。もしわたし達が常に生ける屍であり、永遠の生命を経験することもなく精神的に死んでいるものなら、わたし達の希望は虚しく生活は無意味なものになるでしょう。しかし真相は決してそうではないのです。わたしはなおも繰り返して言いましょう。父は光、子も光、霊も光なのです。この三者は時間を超え、不可分で混同されることのない光、永遠の創られざる光、無尽蔵で測りしれない光、不可見の唯一の光、なのです。この光は万物の外に万物を超えて存在します。どんな人も浄められなければこの光を決して見ることはなく、見なければ決して受けとることのできない光なのです。なぜならこの光を得るために何よりもまず光を見なければならないのです。見た後に多くの骨折りと労苦が必要なのですが……。」
 上に述べたように東方神秘思想は常に恩恵の贈り主、霊のペルソナと彼が授ける創られざる恩恵とを区別している。恩恵は創られざるもので本性的に神的なものである。
p.214-215
シメオンの弁を強調色で示してみましたが、「霊」というものは「神」から贈られた生命だと自覚する。こういった考え方は現代人が忘れている考え方だと感じます。「なぜ生きているの?」という問いに答える究極的な答えのひとつ「神から霊を授かっているからだよ」というものでもあると思います。

私が最も興味を惹かれるものは「意識」です。この「意識・こころ」と呼んでいる《感覚》はどこから与えられているのかという問いを持ち続けています。

つぎに「修道」について
■第十章 一致への道
ヨアンネス・クリマコスは、このことを次のように簡単に定義している。「修道僧とは、いつも人間性を強制し、五感を警戒する者なのです。忠実で賢明な修道者とは、どのような人でしょうか。それは極みまでその熱意をまもり通した者、死に至るまで火には火を、熱意に熱意を、渇きに渇きを、思いに思いを加え続けた人のことです。」
 しかし、こころがいつも燃えているとしても、精神は冷静でなけれぱならない。なぜなら精神こそこころを見守るものだからである。ところで、こころ(カルディア)は、東方の修行の伝統にとって人間存在の中心――理性、意志、活動的諸能力の根――である。それから全精神生活が由来し、それへとまた収斂してゆく一点である。こころは、生魂と精神が行なう全運動の源泉であるから、 エジプトのマカリオスはそれを「義と不義の実験場」と名づけた。彼によるとそれは悪徳をすべて含む器である。と同時にそこでは「神、天使、生命、王国、光、使徒、恩恵の宝などが見出されます……恩恵はこころの牧場をとらえてしまうと、すぐに人間性の全体とすべての思いを支配します。なぜなら、こころのうちに精神と生魂のすべての思いが見出されるからです」とも言われている。このようにして恩恵は、こころを通じて人間本性全体に浸み込んでゆくのである。人間存在の最高部分である精神[ヌース]・霊[プネウマ]は観想の能力であって、人はそれによって神に向かう。精神は人間がもつ人格的な部分(自由と良心)の原理として、人間性の中でも最高にペルソナにふさわしい部分である。《中略》こうしたわけで、ギリシア教父はしばしば、精神を人間における神の像[エイコーン]とみなしている。
p.247
「修道僧は常に五感を警戒する者」という言葉には説得力があります。東洋の修道僧としてダライ・ラマ法王は「修道僧の鏡」のような人だと思っています。法王はどこにいても五感を警戒しているように思います。ダライ・ラマ法王の人相を見ていると、いつも《熱誠》《慈悲》を感じます。

「こころ」を「義と不義の実験場」としたたとえが本当にピッタリです。善悪を知る場所としての「こころ(カルディア)」。こころを失えば、神化の道を失う。

「身体」について
■第十一章 神からの光
 身体は決して神秘体験の邪魔をしない。東方の修道生活は身体的本性を軽視するマニ教の考えとは無縁である。グレゴリオス・パラマスは語る。「わたし達が人間という名を与えるのはこころあるいは身体のどちらかにではなく両方の総体に対してです。なぜなら人間全体が神の像として創られたのですから。」身体は精神化されて、パウロの言う「精神的霊的身体」とならなけれぼならない。われわれの窮極目的は神を知的に観照することではない。もしそうであるなら死者の復活は虚しいものになるであろう。至福な人々は、彼らの被造的本性が満ち溢れるようになると顔と顔とをあわせて神を見るであろう。そういうわけで『聖山文書』は生身のままに浄化された人はすでに現世から或る一定の「精神的能勢」をもっと考えて次のように述べている。「もし身体がこころと共に未来世の言い尽くされない善に与るはずならば、今からすでにできる範囲でその善に与っているに違いない……なぜならこころがもつ情熱的な諸力が殺されるのではなくてむしろ変容し精神化されるとき、身体もまた神的事物を経験するからである。」
p.271
宗教やスピリチュアルな教えの一部には「身体」を「不潔」なものだと見る考え方をするところがあります。パラマスは「身体」と「こころ」を不可分の総体として前向きに捉えています。

「身体がなければこころは育たない」ヒンドゥーのオーロビンド・ゴーシュも同様の考え方を『神の生命(いのち)』のなかで述べています。ダスカロス「誰もが亡くなって“神と一致(テオーシス)”できるのであれば自殺したほうが早いのではないか」というような皮肉を述べる行が『メッセンジャー』シリーズのどこかに書かれていました。身体なくしては霊の成長はあり得ないのですね。
最新記事へ
スピリチュアルな想いを形に
2011.11.12 Saturday | Category[2]スピリチュアル:キリスト的なもの | comments(0)

スポンサーサイト
最新記事へ
スピリチュアルな想いを形に
2019.09.01 Sunday | Category- | -

   ※予め注意事項を確認ください
   ※タグは全て無効になります
   ※本文中のURLは管理者以外の投稿は削除されます
   ※記事の内容と関係ない投稿は削除されます
   ※誹謗・中傷・広告宣伝・差別・卑猥にあたる発言は削除されます
   ※その他、管理者が不適切と判断した投稿も削除されます










AX