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スピリチュアルな想いを形に
2024.01.15 Monday | Category- | -
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映画『パッション(The Passion of the Christ)』をご存知ですか。かなり有名ですよね、メル・ギブソンがリアリティを追究して作った「キリストの受難」を描いた作品です。キリスト教圏では物議を醸しましたが……。
映画のストーリーの基は18世紀のスペインに生きたアンナ・カタリナ・エンメリック(Anna Katharina Emmerick)という敬虔なカトリック信者の女性が視たヴィジョン(幻視)が基になっています。『新約聖書』が基になった映画ではないので“カトリック的信心”が如実に現われている物語なんです。なので、ユダヤ教のラビ(祭司,指導者)たちが“世にも悪しき者たち”として描かれています(かなり偏りがあります)。
歴史的な話を少し説明すると、当時のユダヤ教のラビたちは権力や財に溺れていたといわれています。どこの宗教・政治でも同じですね。各地のユダヤ人グループの中にはそれら権威ユダヤ教から離れ、自ら清らかな生活を志す人たちが現われていたといいます。それらの人たちは「エッセネ」「テラペウタイ」などと呼ばれ、その共同体の掟は「禁欲・清貧的」なものでした。彼らは全てユダヤ人で「旧約聖書」を基にこれらの信仰を行なっていました。彼らのことをユダヤ人哲学者アレクサンドリアのフィロ(紀元前25年‐紀元50年頃)は『観想的生活・自由論』で書き残しています。ちなみに、フィロはジーザスとほぼ同時代のユダヤ人哲学者です。
このグループが後にキリスト教へと発展していったというのが歴史宗教学者の間では仮説(存在希望説)になっていますが証拠はありません。オカルティストやスピリチュアルな人たちは「ジーザス(Jesus)がエッセネ派だったのではないか」という学者たちの仮説を援用し様々なヴィジョンやリーディングを通して話します。それはもう多種多様です。
エンメリックのように〈キリスト・イデア〉に出会うことが出来るだけの強い信心と創造力を持った人でなければ、キリスト・イデアのヴィジョンと出会うことは出来ないです。20世紀に生きたフランス人クリスチャンのマルタ・ロバンという女性も同じようなヴィジョンを視た人物として知られています(参考文献『マルト・ロバンの面影』)。
その他にも、奇蹟を数多く行なった聖職者として有名なピオ神父(Padre Pio da Pietrelcina)などは時代も近いのでマザー・テレサの男性版というようなイメージで考えると良いかもしれません。ただ、彼がマザー・テレサと違うの点は“やや霊能者的な現象を数多く残していること”でしょうか。このブログではお馴染みのダスカロスと近い霊性を聖職者の身で示してしまったために色々な問題があったようです。
正統な教会内であっても異端な教会外であってもキリスト教的霊性〈キリスト・イデア〉に出会うこと、更にそれを体現することは稀なことです。キリスト教的霊性に生きようとする場合、強い信心の心魂と態度で向かうことが出来ない人は教会内外を問わず〈キリスト教的霊性〉の道は歩めないと感じた方が良いとも思います。
実践と学びに参考になるキリスト教内部の先達といえば、『霊操』のイグナチオ・ロヨラ(Ignatius of Loyola),『霊魂の城』『完徳の道』のアビラの聖テレサ(Teresa of Avila),『愛への道』の十字架の聖ヨハネ(John of the Cross)などです。カトリック・キリスト者として歩みたい人は、これらに触れる機会を作り精読されると良いと思います。スピリチュアル・精神世界本だけしか知らない危ういキリスト者とは違った実践と祈りが捧げられるキリスト者の道に入れるかもしれません。
秘教的組織(薔薇十字や近代神智学など)の秘儀やイニシエーション(参入儀礼)に頼らなくても確実に歩める道があります。
日本の大多数のスピリチュアルな人たちは「聖書」を読んだこともないといいます。哀しいことです。そのような状態で〈ジーザス・キリスト〉〈聖霊〉〈大天使〉のことを話し始めるかたがいます。これは非常に頂けません。
「聖書なんて関係ない」と仰るかたはキリスト・イデアのヴィジョンに出会うことは叶わないでしょう。
もしキリスト教会に所属されていなくても真剣にキリスト者として歩もうとされるかたは新共同訳でもフランシスコ会訳でもバルバロ訳でも何でも良いので『聖書』を手元に置いて熱心に読み、自分なり理解してゆきましょう。それがまず第一歩です。
東方キリスト教的霊性に生きようとされるかたは、祈り(瞑想)を行なう場所にイイスス(Jesus)やマリヤのイコン(聖画),聖像などを飾りましょう。そしてハリストス(Christ)という精神的勝利者に対する厳粛で清らかな献身に生きることを目指しましょう。聖歌などを聴き、身を清めた生活を送れるように祈りを捧げることが大切です。正教では先日の記事で紹介した「乳香」を祈りの際に焚くということをご家庭でも行なっているようです。
ただ、やはり東方キリスト教でも、江原啓之さん,ダスカロス,ロバート・モンロー,イアン・ステーヴンソンらが言うような〈霊界〉〈転生〉などの世界観は否定されています。東方キリスト教も仏教の〈顕教〉と同様〈密教〉ではないので仕方ないのだと思います。江原さんやダスカロスのような話は密教的なのでチベット密教のダライ・ラマ法王くらいしか正統宗教者では理解を示してくれないことだろうと思います。「転生」への嫌悪感は一般的な人たちには、まだまだ受け入れられないものです。
東方キリスト教が主流のキプロスで霊能的ヒーラーのダスカロスが活動できたのは、キプロス初代大統領・キプロス正教大主教マカリオス3世と親しかったからだそうです。
何となく東方キリスト教は、大乗仏教の香りが漂う荘厳な雰囲気があります。〈聖歌〉を聴いていても、何だか〈お経〉を聴いているようです。でも、東方キリスト教の霊性に生きることなど私は出来ないと感じました。雑学として理解は出来るものの、その霊性に生きることは到底不可能。なので「東方教会的霊性に生きる」などと言うだけはいけません。生活のすべてを生まれながらに東方キリスト教の霊性に生きている方達に失礼です。
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カトリック的霊性に生きようとされるかたは、イエズス(Jesus)や聖母マリアの聖画や十字架を室内におき、いつでもイエズスや聖母マリアを感じられる雰囲気をつくりましょう。神棚や仏壇が家にあるようにカトリック的霊性に生きたいキリスト者のかたは祈りの場をつくりましょう。その前で祈り(瞑想)を行なって下さい。
どのような霊性に生きようとすることでもシッカリとした〈型〉から入りましょう。どのようなものでも基本の〈型〉が大切だからです。
ジーザスとの出会いを体感・体現できないようなキリスト教的霊性を語る“霊能力者”や“ヒーラー”はお話になりません。これは神智学運動の学者たちに対して、或る理知的な神秘家(霊能者)が落胆した原因ともなっています。
キリスト教的霊性に生きて或るラインを越えた人物はジーザスと出会うことが可能にもなります。出会ってからはジーザスを自らが纏(まと)い体現するようにもなります。それが心の癒しや奇蹟といわれるヒーラーとしての癒しの能力となる人もいます。その時点でその人は意識もせずに他の霊能者の目(霊眼)にはジーザスを纏った人物として映る(感じる)ようになります。相対的なものです。俗っぽくいえば「聖人」です。
例えば「彼にジーザスを感じる」とか、ジーザスに近しい人たち「聖母マリアを感じる」「ヨハネを感じる」など、どんな霊能者に会っても言われるようになります。自ら公言している人たちは“ニセモノ”か“カン違い屋さん”ですからわかりやすいです。他人から言われたり感じて貰えなければ無意味なものなのです。しかし、それはキリスト教的な生活圏で育ってきた霊能者たちにとっての表現方法で、もしそれが他の宗教的生活圏の霊能者だとしたら違います。
例えば、ユダヤ教,イスラーム,仏教など、それぞれの生活圏での見え方は異なります。ユダヤ教的霊性の人には「ヤハウェを感じる」というような感じや、イスラーム的霊性の人には「アッラーを感じる」などとして映ります。もちろん仏教的霊性の人には「彼からボサツを感じる」となります。 密教的には「顕得成仏(けんとくじょうぶつ)」と言われる段階で、その人の仏種(キリスト種)が開花して周りの人たちから「後光が差している」というふうに呼ばれる状態のことです。
キリスト者のかたは〈キリスト・イデア〉を体現できるように
精一杯励んで生きましょう!
スピリチュアルな想いを形に
2009.12.02 Wednesday | Category[2]スピリチュアル:キリスト的なもの | comments(3)
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スピリチュアルな想いを形に
2024.01.15 Monday | Category- | -
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TeruSun はじめまして。
初のコメントをいたします。
名前ですが、Γ(ガンマ)とでも呼んでください。
よろしくお願いします。
TeruSunの幅広い霊的な知識と体験による良書の紹介、そしてブログを通して知識を他人に分かつ活動には感服しております。
yutubeでご紹介された聖歌は、ギリシャにある聖山アトスのシモン・ぺトラ修道院の修道士たちの演奏にによるものです。
魂の奥深くをクレンジングされるような歌声で、自然と涙がこみ上げてきます。
修道士=モンクのギリシャ語の語源は(モノス=一人)だそうです。
中世の巡礼者たちは、聖地までの長い道のりを杖を片手に徒歩で旅をしていました。
TeruSunは東西教会の霊性の話をされておりましたが、
この聖歌を祈り口ずさんでいる修道士達は、自己(一人)の中にキリストの光を求め、父の元へ帰る旅を先んじている巡礼者のように感じます。
私などは到底巡礼者となる気構えなどもなく、霊性とはほど遠いい生活をしております。
(ご紹介されたアトス山の聖歌はCDの現物は入手困難ですが、AACフォーマットであればi-tunes storeでダウンロードできます。検索窓から「simonos petra」のキーワードで検索すればヒットします。)
仕事をされながらのblog記事の執筆は大変でしょうが、これからも楽しみにしております。| Γ (Ganma)さん | 2009/12/06 9:42 PM |Ganmaさん、はじめまして。
初コメントと貴重な情報ありがとうございます。
iTunes Storeの方で早速検索してみました『Hymnes du Mont Athos』というタイトルのものに同様の歌があったのでGanmaさんが教えて下さったのはこのタイトルの物かなと思い有り難く参考にさせて頂きました。
アトス山の事はある方から聞いてから雑学と文学の中で知るようになりました。今では日本の寺院などでは真摯な修行者は皆無に近くなっていますがギリシャの方では全く異なると聞く事があります。とても真似出来るものではありませんから感銘を受けています。| TeruSunさん | 2009/12/07 6:18 PM |おひさでーす^^
明後日、江原さんの講演会に行くことが決まりまして。チケットが取れたと、家族が勧めてくれました。たぶん、お説教されに行くのではと、内心ドキドキです。そういう人の集まりが、あの集団かなあと。w
メル・ギブソン監督のは、痛すぎましたが、いい映画だと思いました。あの責苦が本当ならば…。TT
自分に語りかけてくるもののことで、ちょっと質問です。それは、感覚という場合もありでしょうかね?ヨギが瞑想すると、「神を瞑想すると、背筋に不思議な感覚が…。」と、あるヨギの自叙伝の件に出てきますが、こういうことがある意味「対話」になるのでしょうか?個人的な見解が伺えれば幸いです。これは、そっちの分野の人にも参考になるかと。^^;
今年中に入れたら、また来まーす^^ではー。| 整体Cさん | 2009/12/09 4:42 PM |
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