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忘れられた真理―世界の宗教に共通するヴィジョン [抜粋]
忘れられた真理―世界の宗教に共通するヴィジョンヒューストン・スミス『忘れられた真理』は、知的な形而上学(霊学)を探求する人たちが諸手をあげて推薦する名著らしいです。

たしかに名著といっても良い部類の内容だと思いますが、私には何故かシックリ来ません。私のレベルが低いのか高いのかわかりませんが、シックリと来ないものです。 書かれていることは納得できます。それも理路整然と丁寧に書かれ考察もされています。でも、シックリと来ない。これは不思議な感覚です。

批判的に書かれたものですが、菅原浩『スピリチュアル哲学入門』のように反発も感じません。シックリ来ないけれど悪いものでもなく反発も感じない。文章の書き方が上手いのか、それだけの熟練者なのか、「我」が感じられません。何かに固執していると「我」が感じられるのですが、それが抜けている。

ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、仏教のすべてを批判せず全てを持ち出してスピリチュアル思想を語ろうとする姿勢が、とても共感を持ちます。アメリカ先住民のシャーマンや中国の老子、論語をも説明に使う。スピリチュアル思想は、こうでなくてはと思います。ヘブライズムの預言者たちもアメリカ先住民のメディスンマンたちも、共に精神的なのですから。

好感を持ったところどころを抜粋紹介します。
この本は、気が向いた時に再読すると良いと思います。なので気になる方には購入を勧めます。訳者・菅原のブログ記事にも同感です。
世界の中心とは
マルティン・ブーバーは、死後の生というものはあるのかと問われた時、こう答えた。「後というものはありません。時間とは、神の心の中にある結晶にすぎないからです」。空間もそうである。空間は、非空間に由来している――もし、この表現はあまり奇妙で突飛なものだとすれば。「存在することのないものから、神は存在するものを作られた。実体のないエーテルから、神は偉大な円柱を彫り上げた」(カバラー)。また同様に――これはブーバーの言ったことだが――時間も、非時間に由来している。
《中略》
もし個人の中心を宇宙の中心と同一視するのはおこがましいと感じるとすれば、物理学も全く同じことを要求していることを思い出してみるといい。《中略》ヘルメス的な定式がこれを正確に言い表している。「神は球体であり、その中心は至るところににあり、その円周はどこにも存在しない」。ブラック・エルク(ラコタ族)は、山頂において、自分は宇宙の中心にいたと言っている。「だが、その中心はどこにでもあるのだ」。仏教によれば、砂粒のすべての中にブッダが存在する。
  数学的な点はあらゆる場所に存在する。それはすべてに力を与えるが、理解不可能な本質であり、存在するもの(エグジスタンス)という雪の結晶を作り出し、それを本来の場所に位置させる。カバリストは、これを「内なる場所」あるいは「聖所」と呼ぶイスラムでは「神聖な場所」といわれ、それは対立するもの、矛盾するものを結びあわせている。中国では「中央」といい、変らざる中心という意味である。道家思想では「虚」であり、それは車輪のスポークを結びあわせ、それを車輪にする。《中略》この気づきは、直接的には冥想を通じて発達させることができ、また間接的には「日常生活の冥想」を通して鍛えることもできる。日常生活の冥想とは、人間の存在における対立するものの間の緊張をやわらげることを目的とするものである。執着を手放す練習をしながら、形あるもののとめどない流れを断ち切り、空(くう)において平和を見出すのである。

「第二章 空間のシンボリズム」p.59-63
前の話ですが、ラコタ族の翁を主人公にした映画「ドリームキーパー」で、これらのことが語られていて、私は相当に感じ入りました。

スピリチュアリズムやニューエイジに関すること
肉体を離れた者たちが霊媒(チャネラー)を通して死後の経験を語るというのが本当だとすれば、こうした報告は、心がその本来の状態にある時、物質世界にはまったく含まれていないような状態になっていることを証明するものになるだろう。こうした報告は、十分に注意して取り扱う必要があるだろう。というのはここで問題となる「支配霊」とは、統合された魂ではないし、また統合された心でもないからだ。それはほとんど「サイキックな残滓(ざんし)」からなっている。それは心がサイキック次元を通っていく時に残していくものである注8私たちの身体が何年もの苦役の末に崩れ落ち、魂が永遠への旅に出発するとき、パーソナリティーをなしていた表層の断片がしばらく浮かんでいるのである。それはサイキックの海に小さなからだが漂流しているようなものだ。情報がこうした断片から来ているとすれば――明らかに一部はそうだとして――統合失調症患者が語ることに似ていることであろう。飛躍した話や嘘話の中に真理がときどき垣間見えるようなものである。もし他の惑星から地球に来た宇宙人が精神病院を訪れたとすれば、こうした患者の語ることから地球とはどういう場所かいくらか理解を得ることもできるかもしれない。だが、その宇宙人の、そうした話をあまり額面通り受け取らないよう忠告しておきたい。スピリチュアリズム(抜粋者注:チャネリングやアカシック・レコードリーディングというものも含むと思われる)というテーマが全体が、あまりに罠の多いものであって――ルネ・ゲノンの『スピリチュアリストの誤り』が、この問題を何よりもよく位置づけてくれる――これをまったく飛ばしてしまいたい誘惑にも駆られる。だが、こうした影の国から、シャーマンや他の霊媒たちを通して、真理のかけらが時々やってくるという可能性を完全に排除してはならない

注8 このことは特に現在では言っておく必要があることだろう。現在は、同僚のアゲハナンダ・バラティが「乱発するランパ流」と呼んだものがはびこっているからだ。英国の鉛管工がロブサン・ランパという著名で熱狂を呼び起こした。また同様に、ジェーン・ロバーツは、セスという肉体を離れた霊魂の口述筆記を試みようとした。


「第四章 自己性の諸レベル」p.132-133
かなり前からずっとずっと言い続けていることをスミスは言っています。ちょうど先日の書いた記事「2012年アセンション」に関してもそう。

魂とは
  魂とは、私たちの個体性の最終的な場所である。魂は感覚のいわば背後に位置しているため、見られることなく目を通して見ることができ、聞かれることなく耳を通して聞くことができる。また、魂は心よりも深いところにある。もし心というものを意識の流れと同じものとすれば、魂とはこの流れの源泉である。魂はその意識の流れを見る。だが、決してその流れの中に入って、データの一つとして観察されたりすることはない。実際、心という流れの下にあるだけでなく、個体が経験していく変化すべてについて、その背後にあるのが魂である。

「第四章 自己性の諸レベル」p.135
素晴らしい「魂」についての解説だと感じました。「永遠の個性」は、話すこともなくただ存在している。「ハイヤーセルフ」を他人が感得することなんて、ほぼ不可能でしょうね。「永遠の個性体」にアクセスできる霊能者やチャネラーがいるなんて、99.9%夢想的な話しでしょうかね。

神秘的ヴィジョンを力強いものにするために、やらねばならないことがある――科学者が、その専門分野でやらねばならない仕事と同じくらいあるのだ。ここで、努力か恩恵かという問題を持ち出すことには意味がない。たとえどちらかに強調点があったとしても、その両者を共に含んでいない探求などというものはないのである。禅においてさえ、座禅を始めようと決意をもたらすものは恩恵なのである。浄土真宗でも、自分で念仏を唱えるということは必要なのだ。すべては贈られたものであるが、ただで与えられるものは何もない。神の恩恵という風は、つねに吹きつづけている。だが、帆はあげておかねばならないと、ヴィヴェカーナンダはよく言っていた。神の知識は、探求することによって得られるわけではない。だが、探求する者のみが見出すことができるバヤジッド)。
  注意深くあること、たゆみなく努めること(霊的訓練)が必要だということは、自由意志と恩恵の二分法を超えている。

「第五章 科学の位置」p.202
「他力本願」か「自力本願」か、とか言われるようなことですが、そのような二分法ではなく、すべてを超えているものがあるからどちらかを強調しても仕方ないということがいえるんでしょうね。ヨガランクでいつも上位のヨギーニうちこさんの様にヨーガをしながらヨーガ哲学、仏教を学ぶ(読書)姿勢というものは大切ですよね。

実践に役立てる情報としては以下のものです。
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私が行なっている座禅は、厳密にいえば「瞑想」ではないといわれていますから音楽とかは使っていません。が、経験で言えば、座禅でも慣れてくると音楽を聴いているような状態が体感できると思います。さらに目を閉じていないでも、そのような体感なので、いつでもどこでも生かせる気がします。そして、これは以前から言っている(体感している)ことですが、座禅をしていても「気」のような「微細エネルギー? プラーナ? エーテル?」のようなモノが見えてしまうことがあります。自分の身体から「白いボワボワ:ドラゴンボールのスーパーサイヤ人の時のエネルギーのようなもの」が立ち昇っているのを視ることがありますが、私は道元流の禅者なのでスルーしています。「まあ、生きている人には誰にでもあるものなんでしょうから」と。

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