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スピリチュアル本は数限りなくあります。素晴らしい本を全て紹介し切れませんが一部をこちらで紹介します。こだわりは「百害あって一利なし」。読書が嫌いな方は以下のものを読んでもらえればスピは十分だと思います。

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スピリチュアルな想いを形に
2024.01.15 Monday | Category- | -

不可触民と現代インド
不可触民と現代インド (光文社新書) 山際素男『不可触民と現代インド』(光文社)を読んでいるような人は、軽はずみに「輪廻」「霊的ヒエラルキー」とか、そういう事を言わなくなるのではないかと感じた。「輪廻」は、改革すべき敵なのであった。改革されない人生が、その人にとってどのような苛酷で残酷な人生になるのか。

 ぼくは思う、「自分の人生を創造する」方が大切なような気がする。先ごろ話題になったオバマ大統領も、そうだったように。

 山際さんのもたらす情報が真実のインドやチベット問題を浮かび上がらせているものだと感じている。

〈下段に続く〉
 お話が長くなってしまうので後半は最後に書くとして、本書の抜粋です。
「インド留学中、たまたま私の同乗していた車が畑道で農夫をはねた。しかし、このひき逃げ事件は、市のいかなる新聞ラジオでも報道されず、警察も全く動かなかった。はねられた農夫が不可触民(「指定カースト」と呼ばれるカースト外カーストの人たち。日本でいえば部落民、穢多非人のような身分)”だったからだ」

「はじめに」P4
コメント:今でもこの現状は、やや軽減されたが変っていない。ニュースで時折り、そのようなカーストで殺人が行われたものが報道されているのをご存知だと思う。チベットで身体に火を付けてデモを行った僧侶が救助されることなく射殺された事件も同じようなものだろう。ぼくら日本人のあまりにも狭い世界観を小さくするんだろう。そして、それを何とも思わずに見過ごしてしまう無神経な言葉たち。

何千年とつづく“忌まわしい存在”

 紀元前1500年頃、アーリア人といわれる、金髪、碧眼(へきがん)、白色人種の放牧民の一団がヒンドゥスタン山脈を越えインド亜大陸へ侵入してきた。彼らはインダス文明を築いた先住農耕民族、行く先々の色の黒い原住民と戦いつつ、彼らを征服していった。
 そして、バラモン(ブラーミン)を頂点とするカースト制度を作り上げていった。当初、バラモン(僧侶、司祭階層)、クシャトリア(王侯、戦士階層)、ヴァイシャ(商人階層)の三階層だったが、やがて被征服民をシュードラ(前上位カーストに奉仕するカースト)を加え、後にいわれる四姓制度(カースト制)を築いていった。
 しかし、後になってシュードラの下に“不可触民”というカースト外カースト民を作り、バラモンが不浄とする労働を押しつけていった。
 バラモンたちは、まず祭祀を独占し、その呪力的権威をフルに発揮し宗教的権威者集団の地位を確立した。

ブラーミン 僧侶、司祭階層
クシャトリア 王侯、戦士階層 (ブッダ)
ヴァイシャ 商人階層 (ガンジー)
シュードラ 上位3カーストへの奉仕階層
ダリット カースト外カースト[穢多非人]

「第一章 この国の本当の主人公は誰か」P16
コメント:このような宗教的、霊的ヒエラルキーを愛好する想念体(強大なエレメンタル、集合的意識、聖域)が存在するのかもしれません。支配したいと強く思う巨大な想念が人から人へパラサイトし、彼らの意識を捕囚してゆく。聖域を破壊されたくない意識は、力を盛り返すためにあらゆる人間を利用する。それが霊的権威者や霊能者であるやもしれない。霊(意識)からすれば、一番ハッキングしやすいのが彼らなのだろう。インドで仏教が潰された原因もバラモンたちの陰謀という形が見えてくる。今の官僚みたいなもので、なんでも捏造したりデマゴギーを吹聴する。支配するために……。

“暗黒の千年”はなぜ生まれたのか?

 この、バラモン(ブラーミン)の正体を見破り、公然と彼らの権威と偽善に挑戦したのが、“不可触民”アンベードカル(1871−1956)であったのだ。
アンベードカル博士
 1920年前後から1940年代始めにかけての独立運動時代、ヒンズーの支配体制、カースト制の強固な擁護者であり、“神”のごとくに崇められていたマハトマ・ガンジー(1865−1948)は、自分の偽善性を鋭く批判し、不可触民のために自分に楯ついてやまぬアンベードカルと会見することになった。その時初めてアンベードカルが“不可触民”であることを知り、大層驚いたという。

「第一章 この国の本当の主人公は誰か」P20
アンベードカルの生涯 (光文社新書)コメント:マハトマ・ガンジーという造り上げられた聖者。インドのブラーミン支配階層が占める官僚、政治家、メディアによる欺瞞。アンベードカルが仏教に見出した古代インドで不可触民たちを差別しなかったゴータマ・ブッダの想い。アンベードカルの仏教哲学は、正に「生きた哲学」「現代に再創造された仏教」だ。再創造のない宗教哲学は無意味にも感じてくる。

アンベードカルを脅迫した“死の断食”

“不可触民”階層にも分離独立選挙をさせよ、
と迫るアンベードカルガンジーは徹底的に反対し、最後は無期限断食に入り、“死の断食”をもってアンベードカルを追いつめた。
マハトマ・ガンジー
 その当時、こういうエピソードが残されている。
「ガンジーさん、私には祖国がありません。だから自分たちの国を作りたいと願うのです」アンベードカルはいった。するとガンジー「何を言うのです。あなたは“不可触民”の立派な指導者として社会的に高い評価を得ているではありませんか」と驚いていった。「いいえ、そうではありません。私たちはこの国で自由に水すら与えられず、飲むことができません。そんな国をどうして祖国と呼べるでしょうか」
 ブラーミンの共同幻想社会は、労働力としての不可触民の存在を絶対的に必要としながら、対等の人間としての存在を“幻想”の社会からは「不浄」という幻想によってあっさり切り落としていたのである。“幻想”の怖さは正にここにある。

 しかし、ガンジーはイスラム教徒の分離独立選挙は認めながら、“不可触民”の分離独立選挙は最後まで認めず、“死の断食”をつづけた。ヒンズー社会、メディアの激しい攻撃に晒されながら、アンベードカルも彼の“脅迫”に耐えつづけた。
 このままでは“死んでしまう”というところまでいって、アンベードカルは遂に分離独立選挙の夢を諦め、ガンジーの脅迫に屈した。

「第一章 この国の本当の主人公は誰か」P28
コメント:無抵抗という名の欺瞞。メディア(ブラーミンたち)を利用した暴力。ヒエラルキーという〈聖域〉を守るための断食という攻撃。アンベードカル博士と違い見た目でごまかされてしまいます。 

インド仏教徒の先頭に立つ日本人僧

 だが、アンベードカルの遺したもう一つの、そして最大の遺産は、1956年10月の仏教への改宗であり、彼と共に改宗した“不可触民”50万人の仏教徒である。
 《中略》
 そこへ現れたのが日本人僧・佐々井秀嶺(ささい しゅうれい)である。1968年渡印し、インド仏教徒の中に入り、以来仏教復興に文字通り身命を賭してきた。

 彼は今日、インド仏教徒の押しも押されぬ大指導者となっている。
佐々井秀嶺
「第一章 この国の本当の主人公は誰か」P30
破天―一億の魂を掴んだ男コメント:佐々井師という偉大な日本人僧の活躍。インド→中国→日本へと伝わった仏教がインドの人々に恩返しをしていると言える師の働きに、小市民のぼくが感じる尊敬。人は何を語ったかではなく、どんなアクションを起こしたかが重要なんだと感じた次第で、次は右の本を抜粋紹介しないとならんかな。佐々井師について書かれた本です。 新書版もあります。

3千年の支配体制からの目覚め

 3千年の支配体制、すなわちバラモン(ブラーミン)を頂点とするカースト制社会を変革しようとするインド低カースト、ダリット民衆は、誰がこの国の主人公であるべきかを明瞭に自覚しはじめている。そしてブラーミンたち上位3カースト、15%の支配階層は大きな危機感の表れとしてRSS(民族奉仕団)、VHP(世界ヒンズー協会)のようなブラーミンエリート集団が独特の“神国思想”を持って体勢を立て直そうとしている。 “我々アーリア種族も先住民だ”などと言いはじめているのはその危機感の裏返しである。

「第一章 この国の本当の主人公は誰か」P33
コメント:ブラーミンエリートたちの捏造作業は政府、大学、メディアなどブラーミンが占める情報機関を通して日々行われている。今も続いているようだ。

民衆が騙されつづける「聖者」

「今でもインド民衆はガンジーを聖者扱いして崇拝しているではありませんか?」
「私自身ブラーミンなんでちょっといい難いんだけど、インドで“聖者”を作り上げるのはわけないのですよ。これまでどれだけの聖者が生まれ、支配階層が民衆を騙してきたと思います? まあこんなことはこの辺で止めておきましょう。私のクビが危うくなるからね」
 
 高裁の裁判官は破顔一笑した。高級官僚にしていは珍しいタイプであった。

「第二章 目覚める人びと」P71
コメント:スマナサーラ長老が言っていた、「聖者の99.99%はインチキなんです」って話と同じような発言を高裁裁判官がしているのが印象的だった。そうぼくも調べてみたが、聖者と担がれた人たちが何かしら政府や支援団体などから厚遇され渡米などが許されているのだ。戦後の厳しい社会情勢のなかでそれだけの活動をしてゆける聖者というものは、何なのか考えてみてもらいたい。聖者の後ろ盾に「ヒンドゥーナショナリズム」の影が見え隠れする。

最悪の悪ふざけとしての“神の子”

 最近ではガンジーが現れ、我々をハリジャン(神の子)と名づけてくれました。最悪の悪ふざけとして私たちはもちろん拒否しています。我々が“神の子”なら、ブラーミンは何と呼んだらいいのか、“悪魔の子”とでも呼ぶべきなのか、とハリジャンの呼称に反対したアンベードカル博士 は議会で皮肉りました。

「第三章 インド史上最大の謎を解明する」P98
コメント:「その人が何を語ったではなく、何をしたかが重要なのだ」という誰かの言葉が脳裏をよぎります。ガンジーは巧みな詭弁家でもあったのだなぁ。そういえば聖者は口が巧い人ばかり。バクティというのも“神”と“神の代理人(ブラーミン)”へのバクティであって本来的な意味をそちらに帰属させるカモフラージュであった。
 更に詳しくガンジーについて知りたい方はうちこさんのブログで良書が紹介されているので、そちらを参考にしてみてはと思います。うちこさんの視点も開けていていいです。

女性が“奴隷”である理由

 バラモン教典、マヌ法典など一切の文献は女性を“シュードラ”として扱っています。インドではどうしてこんなに女性一般を“奴隷”として扱ってきたのか不思議といえば不思議です。
 《中略》
 西ユーラシアの白人種の男たちは先住民の女性を片っ端から略奪し、強姦、暴行を働き征服していったはずです。すべての女性の地位が一様に低く、自分たちの妻となってもシュードラとして扱ってきたのはこのインド侵入時の状況が生み出した帰結といえるでしょう。
 こうしてみると、バラモンの教典が女性すべてをシュードラとして扱っている理由がはっきりしてくるではありませんか。

「第三章 インド史上最大の謎を解明する」P105
コメント:日本の古事記もそうですが、だいたい征服物語なので眉に唾をつけて読むことが大切なんです。鉄器を持った種族が日本を征服してゆく物語。それに反抗する人々を「土蜘蛛」「熊襲」「隼人」「蝦夷」とかいってたわけで。インドでも「アシュラ」とかも、反抗部族の別称であると。マジョリティの記録しか残らないのが常ですね。マイノリティの記録は死海文書とかで発見されたりしますが。

ブッダと仏教が憎まれた理由

 それには“心”の変容が必須です。この国にこれほどカースト差別が根強く行き渡ってしまったのは、それが“正しい”、“当然だ”と人びとが信じるほどに、人間の心をそういう観念に縛り付けてしまったからなのです。そのため神々を利用し、信仰心を抱かせ、神話の内容が真実そのものだと思いこませたのです。それを実践し、成功したからこそ今もってインド人のカースト意識は変らないのです。

 そういう文明、社会を作り出したのがブラーミンであり、彼らの利益に徹底的に合わせる技術を鍛え上げてきました。人びとがそういうブラーミニズムの虜になり、そこから抜け出られないようにしてきたのです。 だから最初からそういうブラーミン中心思想や宗教に批判的だったブッダと仏教はこの国のブラーミンたちから憎まれ、怖れられてきました。

「第三章 インド史上最大の謎を解明する」P121
コメント:意識改革、宗教改革を実行したものは消されるのが世の常。何か観念を持つとそういう〈聖域〉に縛られてしまいますね。歴史は嘘をつかないものです。

ブラーミン嫌いのブラーミン医師

 パトナ市周辺だけでなく、ビハール州一円に轟(とどろ)く“赤ひげ”先生にお目にかかった。代々ブラーミンの家系だ。仏教徒名はウペンドラナータ・カルナカラン・キルティ。

「昔はラグナヤクトが最後についとった。でもとっくに捨てたよ」
「何故です?」
「ブラーミンの苗字だからね。父も捨てていた。インドでは大体苗字でカーストやジャーティが直ぐわかる」

 67、8歳だろう。歳なんかどうでもいい。数えたことなんかないと笑う。
 しゃがれ声だが、若々しくぴんと張りがある。それでもぐいと突き出た大きな鼻と端正な面長の顔立ちは素性を隠せない。北インドの典型的ブラーミン面(づら)だ。故ネール首相と同系統のようだ。

「父は仏教徒ではなかったが、カースト制度は断固として否定していた。だからブラーミンの苗字を捨てたのだ。私が仏教徒になったのは、仏教の教義に賛同したからであって、ブッダその人を偶像視する気持ちはない
 カルナカラン氏は明言した。
「ブッダへの尊敬心から彼の像を礼拝するのは一向にかまわないが、ブッダの言葉として伝わっている教えは、“私を盲目的に崇拝するな。私の〈ダルマ=理法〉を実践しろ”といっている教えではないか。私はその言葉が好きだし、それが正しい道だと思うんだ。家業としての医師の道を継いでいるが、その職業をブラーミンとしてではなく、仏教徒として実践することに大きな喜びを感じているのだ」

 《中略》

ブッダとそのダンマ (光文社新書)“何の役にも立たない”ヒンズー教典

「色々な悩みを抱え、あなたに相談しにくる女性も大勢いるのではありませんか?」
「ああ、いるいる。病気を診ている時間より相談事を聞いてやっている時間の方が長い位だ。先ず女性にはいつもこういってやる。

 女性はえてして盲目的信仰に陥りがちだ。自分の頭で考えようとしない。 夫や周囲の言葉に従うだけではだめなのだ。新しい時代にどう生きてゆけばいいのか、と自分に問いかける位の“知恵”に目覚めなさい、とね。

 たとえば借金までしてヒンズー行事や習慣事(しきたり)に無駄な金を使わないようにしなさい。そんな金があれば子供たち、自分自身の向上のために使いなさい。何よりも自分の知性を磨くのです。本位読めるようになる努力を惜しむな。それは自分の幸せに必ず役立つのだ、とね。バグワン(神)の言葉――それは結局バラモンの言葉にしか過ぎないのだ――なんかに頼ってはダメだ。


「第四章 仏教の白い花」P163〜169
コメント:気持ちのいいカラッとした医師の言葉なので長文抜粋しました。


抜粋を終えての総括コメント

 スピリチュアルな人たちは、それがインテリジェンス・スピリチュアルであっても「穢多非人は過去に残虐な同じことを犯した今生で酷い目にあっているからだ」「魂が下位の人間だからだ」などと霊的見地から見た霊的ヒエラルキーというものを口にしてしまう。

 そういった意識は、どこから生まれてくるのだろうか? いつ植えつけられたものだろうか? そのようなものは古代宗教の産物(集合的意識=聖域)ではないだろうか?

 現実世界では平等と言うものは存在しないが、精神の中までも平等というものを作り出せない人間の意識とは、なんだろうか?

 楽しそうな作業ではある。霊的階層があるという遊びは、成り上がりたいという欲望を与える、そして優越感を覚える。その意識はある一定の安心感を与えるだろう。「今は奴より身分が低くても精神のなかでは奴より上にいけるんだ」。成り上がることは可能だろう。聖域のなかでは可能だろう。




 こういった話(書物)を教えてくれたのはヨギーニのうちこさんのブログです。ヨギーニでありながらインドのすべてに理解を持って捉えようとしているヨギーニさんなので、とても尊敬できます。自分の世界観が狭ければ狭いほど、捉える領域が狭い人間になってしまう。世界のすべてを理解することは難しいけれどマイノリティにも共感できる人間になりたいものです。
〈続き〉

 「輪廻」「霊的ヒエラルキー」、スピリチュアルな人たちが気軽に使うこれらの理論体系に人間の意識的な闇――その人たちにとっては「闇」とは感じないかもしれないが――、「インテリジェンス」「エリート」意識が介在しているように思えてならない。 「霊的ヒエラルキーな理論体系」を作り出した古代宗教の人間たちが揃って支配階層だったことは歴史・宗教学に興味がある人たちならば理解できる。

 東西の宗教的の「霊的ヒエラルキーの理論体系」を子どもの玩具のように面白がって再構築、理論化し「神のもと霊的ヒエラルキーが存在する」とか「ワンネス」したいという欲望を持っている人たちがいるが、「本当に虚しい」。そういう人たちを、ルドルフ・オットーにいわせれば「神の学問という名の妖怪を紡ぎだしている」 ということに他ならない。それがインテリジェンス・エリートたちが創りだす〈想念体=聖域、巨大なエレメンタル、集合的意識〉 への入口でもある。

 ぼくが霊的学問、哲学と名づけられたものから離れた理由も、この〈強大な聖域〉から離れることであった。〈聖域〉は、アイデアを供給する者とそれを支持し幻想を受け入れる意識さえ存在すれば構築される。ここに希望を見出す人たちだけの〈聖域〉でもある。
天界  (カラーナ界)
神界 (コーザル界)
仏界 (ブッディ界)
霊界 (メンタル界)
幽界 (アストラル界)
人間界 (エーテル界)
地獄
冥界
魔界
 こういうのはうちの会社の企画たちが作品を作る時に考えたりしてます。お遊びですからね。そういった神秘系の霊的ヒエラルキーの本とか豊富にそろっていますから。そういう遊びです。こんなヒエラルキーなんて意味を持たないんです。「土」と「水」は、霊的階層が、どちらが上?下?
 そういった〈聖域〉をビジュアルとして表現したものを参考に下においておきます。なかなか鋭い視点だなとアニメだけど思った。〈ハブ電脳=聖域〉という風にして観て欲しい。

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2009.03.22 Sunday | Category[2]スピリチュアル:インド チベット | comments(5)

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なーるほど、草薙少佐が出てきましたねぇ。団塊ジュニアには解りやすい。(笑)
そういう話も、あったのですね。なるほど、カーストとは根深いものですね。そして、精神的な拘束をかける手段として利用されている聖者(宗教哲学等)の存在が、あるようです。

えー、生まれ育った環境や出会った本、出来事、人物が自分にとってどんな意味があるか、と考えた時に、私はよく「きっと何か意味がある」と思う癖があります。

また、国や地域、人間関係、家族の元へ自分の意志で生まれてくると思っています。自分では、そう感じる訳で。

いずれも、自分に何を教えてくれたか(くれるのか)が重要だと個人的には思う訳です。こういう話に、一般論は存在しえないかと。

自分の「良心(勘?)」が拒絶しない事を受け入れることは自然かと思いますので、ラーマクリシュナも、ヨガナンダ先生も、江原さんも、この話も、そういうふうに理解したいですね。

でも、気づかない所で拘束されているかもしれません。私のコメントでそう感じたら、それが他の人に御迷惑をおかけする内容なら、遠慮なくツッコミ入れてくださいね。参考にしますね。^^ではー。
| 整体Cさん | 2009/03/23 5:05 PM |
整体Cさん、こんばんは。

まだまだ書ききれていないことはあるのです。
が、私の記事では一面的でしかないですし
整体Cさんの考えについてツッコミをいれようとも
整体Cさんを説得しようとも思いませんからご安心を。

ただ、世界のことは、まだまだ知らないことがあるんだなぁ〜
「人間の意識の海は広大だわ」と言いたくなるわけです(笑)。
| Teru Sunさん | 2009/03/24 12:32 AM |
TeruSun ジャイ・ビーム
うちこはインドでホームステイしたときに感じた様々なことと、ヨガについて学ぶ中で生まれた疑問から、いつのまにかこの領域も見ていた感じなのですが、実際やっぱりえぐい。
山際さんの本に出てくるようなエピーソードほどのことでなくても、ほんのちょっとしたコミュニケーションを見る中でも、扱いがえぐい。
いま、日本のいわゆる「格差社会」のなかに近いものを感じるようになっているのだけど、弱いものにスポットを当てることがメディア力になるという点で、日本はやっぱり裕福な国で、四季に救われてきた国なんだなぁと思います。
| うちこさん | 2009/03/24 1:59 AM |
<この本と併読すべき本の読書案内旁々>

こんにちはTeru Sunさん、

他の頁には卓見や有益な情報があって便宜を被っていて感謝しておりますが、ここだけはちょっといただけません。しかしおかげでこの方面をずいぶんと調べさせていただくことができました。おかげで私はM.K.ガーンディーを尊敬できるようになりました。 実は知人(有名人なので名を伏せる)が日本での佐々井さんの支援ぐるーぷに引きずり込まれてしまったので、関わらざるを得ない事情があってたからです。そのせいで私は霊的にずいぶんと嫌なおもいをしていました。

前回は投稿の基準に沿うように書いたつもりですが、挨拶もなく、いきなりかなり専門的なことをも含めて延々とごちゃごちゃと雑に書いてしまったので、掲載していただけなかったようですね。 しかし、この本を公平に理解する為には是非とも必用なことですので、性懲りも無く、肝心なことだけを投稿させていただきました。


最初にこの本を読んで、著者の見解を鵜呑みにするのは危険です。

決して「真実のインドやチベット問題を浮かび上がらせている」わけではないです。 真実とは一体なんでしょうか? 細かいことですが、英語に堪能だった山際さんが『ダライラマ自伝』の訳者であることはチベット問題には関係ないことです。インドにも様々な非差別階級があることは事実でも、これはその生じた背景を的確に描いているとは言いがたい本です。だから

インドの宗教や歴史にある程度精通していないで、上記の本をお読みになるつもりな方はまず以下を必ず読んで下さい。品切れ再版未定な本ですが、もしも可能なら先まわしにする方がよいです。

伊勢崎健治『インド・スラムレポート』(東京:明石書房、1987)p. 121-126

この本は建築学がご専門であってどういうご縁かボンベイのスラムで福祉活動に携わることとなった日本人男性の滞在記です。日本にも非差別階級といものが存在する事をインドに行って初めて知ったらしい。 上記の頁のなかで、山際さんが嘘をついているというわけではないが、視点がおかしいことを著者は指摘している。
部外者(日本人)たちが暗いとも。案の定、後書きを書いている人(日本の部落問題に関心が深い)はこの著者の中立的な視点が気に入らないらしいです。

またインドのカーストの分野では以下が必読書です。廉価だし。

藤井毅『インド社会とカースト』 世界史リブレット、(東京:山川出版社)
『歴史のなかのカースト―近代インドの〈自画像〉』 (世界歴史選書) (東京:岩波書店)

インドには古来からいろいろな系統の人々が入って来て、生き残る為の住み分けのしすてむとしてカースト(つまり世襲的分業制)が成立したということが簡潔明確に説明されている。決してアーリア人が先住民を押さえつける為の装置を捏造していったという単純なものではないです。 藤井さんこれらの本ではカーストの成立事情とそのよい面と悪しき面の双方が挙げられている。

 Net上の様々なHPへの数多くの書き込みの殆どがそうなのですが、仏教教義の基本である四諦と三宝との関係も律も殆ど知らない人々が、全体の歴史的な構図を観ずして、ご自分らが読んだり体験した範囲と佐々井キャラクターだけで偽龍樹さん(佐々井実さん)の行為を菩薩行だと看做して拍手喝采を送り、他者にもそのまま紹介する軽卒さには呆れています。TeruSunさんが「霊的ステージ」云々とおしゃべりしてるオタクさんたちに不快感をお持ちになったのは判らないではないですが、ここの主題とはあまり関係なかったのではという気がします。


**(主題は述べたので、長過ぎるようなら以下の削除はご随意に。得難い情報であってお坊さんには有益ですが、自分でも書いていて嫌になった。) *******

何故に「偽龍樹」であるか?
「佐々井さんはタイでSEX問題によって波羅夷になっているので、律の規定では今生では仏教僧侶ではあり得ない」(それを受入れれば、布施は可能だし、事相も消滅しないので、在家として修行を続けることは可能だった、でも日本での師匠のせいで、彼はそうはしななかった)。 つまり律の点では佐々井さんは今は在家であり、旧法名「秀嶺」は芸名になっている。仏教を他人に伝えたり儀式を行う権利はない筈です。僧侶でもないのにそのような姿をしつつ「集団得度」や正体がよくわからない遺跡たちにつぎつぎと龍樹関係の命名をして捏造してまわっておられるから偽龍樹です。
因に彼は「俺は超大乗だ!」と言っておられるようですが、「大乗」という概念は律と入れ替えられ得るものではなくて、付加されるものだから、無関係です。

そもそもアンベードカルはシーク教徒
| Shahpuhrさん | 2011/08/28 2:06 PM |
Shahpuhrさん、はじめまして。
さっしのとおりはじめコメントはとても頂けないものでしたので削除しました。
何を伝えたいのか「前のめり」な印象を感じたので危険だと感じました。
今回もやや前のめりですが公開しても問題ないと感じたので承認しました。

そういえば、ダライ・ラマ法王もガンジーを尊敬されているそうです。
アンベドカルが「仏教」を利用している話は当初から感づいていました。
僕もそういった意図をもってアンベドカルを使って記事をアップしていたので。

いろいろな情報ありがとうございます。今後に生かせるときがあったら生かします。
Shahpuhrさんもいろいろ探求頑張ってください。
| Teru Sunさん | 2011/08/28 2:30 PM |










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