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≪イエスの教え≫スピリチュアルな「たとえ話」の意味
イエスのたとえ話を、ここまで真実味を持って伝えられる人はなかなかいないと思いました。とても純粋で素晴らしい“悟り”や“真理”がたとえ話として語られているんですね。すごいです。

良い羊飼い
(ヨハネ10章1~16節)

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

イエスはまた言われた。

「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠(ほふ)ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

それでは、ダスカロス(ギリシャ語で先生)と呼ばれたアテシュリス博士の講義内容をどうぞ。ダスカロスの説明は長文ですから、どうぞじっくりと読んでみてください。一応、僕なりにマーキングを引いておきました。
 主は「この囲いに入っていないほかの羊」について、つまりイスラエル民族だけではなく、世界中の国々のすべての人々について語っていますが、これはとても有り難いことです。

 ここでは偽(にせ)の預言者についても触れられています。もちろんイスラエルには、「聖霊」を通して神の言葉を語る、正しい預言者がたくさんいました。けれども偽(にせ)預言者たちもまた、この地上にやって来ては人々を惨(みじ)めな状態に陥(おとしい)れていたことも事実です。彼らは人々のことをまったく気にかけず、戦争の指導者として、また他の部族や国々を攻撃する際の指導者として、ただひたすら自分たちの利己的な野望を達成することにのみ注意を払っていました。たくさんの偽の指導者たちがイスラエルに現れました。
 主はそのような者たちのことを、次のように表現しています。「彼らは窓のところを飛び越えて中に入って来る狼たちである。彼らは門を通って入って来るのではない。」
 「門を通って入って来る」というのは、神の声を聞き正しい方法でやって来る、ということを指しています。主はご自身のことを「ドア」であり「門」であると言いました。主が言うように、それ以外の方法でやって来る者は、狼のように唸(うな)りを声をあげるのです。もちろん羊たちはそのような者には決して従いません。羊たちは羊飼いの声を聞き分けて、良い羊飼いである正しい預言者を見抜きます。羊たちは良い羊飼いに従い、そしてここに書かれているように、良い羊飼いは羊たちを牧草地に連れて行きます。ですから羊たちについて来てもらうためには、親切心や愛に溢(あふ)れた言葉と共に、羊たちにとってなじみ深い声を使わなければいけない、ということなのです。羊たちはそのような人についていくのですから。これこそが主が言わんとしていたことです。羊たちは羊飼いの声を知っているのです。

 キリストが磔(はりつけ)にかかった後、使徒たちは福音(ふくいん)を宣(の)べ伝えるために出かけて行きました。そして彼らから愛と思いやりと慈悲についての話を聞いた異教徒の中には、キリストの教えを聞くのはその時がまったく初めてであったにも関わらず、教えの中に愛の声を聞き分けることができた者たちがいました。その時には既にキリストは十字架にかけらてしまった後だったのですが、人々は良い羊飼いの声を聞き分けて、福音を宣べ伝える者たちに付き従ったのです。良い羊飼いとはペテロのことであり、パウロのことであり、またイエスのことでもあります。他にもそういう人々はたくさんいました。使徒たちはキリストが十字架にかけられた後、口を開いて説教を始めました。そして「神の声」を伝える「良い羊飼い」の場として、教会を人々に提供し始めたのです。

 羊たちは「神の声」を聞き分けて、その声に従って行きます。もし羊飼いが愛について「狼たち」に語ったとしたら、彼らはただ唸(うな)り声をあげて逃げ去っていくことでしょう。あるいは攻撃して来るかもしれません。けれども、羊たちはそうした愛に満ちた声に従って行くのです。
 神の言葉を宣べ伝えている他の宗教宗派の指導者たちもまら、愛や思いやりや慈悲について語っています。イエスは「わたしは羊の囲いをたくさん持っている」と言っています。それは他の民族や国々のことです。世界中さまざまなところで、教師たちは彼ら自身の言葉を使って愛と思いやりについて宣べ伝えているのです。

 けれども、愛や思いやりについて語らない者たちは「狼たち」です。今でもいかに多くの指導者たちが、イスラエル民族の国家に限らず、その他あらゆる国々にやって来ては人々を煽動(せんどう)し、影響を与えて、彼らを戦争へと、殺戮(さつりく)へと駆り立てていったことでしょうか。一例としてヒットラーを挙げることができるでしょう。けれども羊たちは決してヒットラーに従うことはありません。「狼たち」だけがヒットラーに従って行くことができるのです。これはたとえ話というよりもむしろ、一つの主張と言った方が良いかもしれません。たとえ話でもあり、主張でもあります。

 それでは、イエス・キリストとはいったい何者なのでしょう。

 最も愛された弟子であり福音書の著者である聖ヨハネは、何事についても一番良く知っていましたが、ヨハネの福音書の冒頭にあるいくつかの節の中で「ロゴス」について説明しています。「ロゴスはこの世界にやって来る人間一人一人を照らし出す光である。」
 一人一人の人間とは、主の囲いの中にいる一匹一匹の羊のことです。

 それではこの「この世界にやって来る人間一人一人を照らし出す光」とは、いったい何のことでしょうか。
 それは「理性」のことであり、また「自己に覚醒した意識」のことでもあります。人間は誰でも、本来一つの「自己意識」を表現していて、「マインド」を「理性」として用いる方法を少しずつ学んでいくのです。

 イエスは「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる」と言っています。「羊」とは人々のこと、「この囲いに入っていない」というのは、キリスト教以外の宗教宗派や信念体系に属していることを意味しています。主はこうした者たちのことも等しく面倒を見ています。彼らもまた同様に一つの「自己意識」を表現することになるのです。

 時が経つにつれて、彼らもまた「理性」を使うことになるでしょう。主の声を聞き、理性の声を聞いて、最後には主に従うのです。すべての者たちが囲いにやって来て、「一つの囲いと一人の羊飼い」になるのです。結果的に人は誰でも、「自己意識」や「理性」として「ロゴス」を表現することになります。現在は他の宗教団体や他の宗教的信念、あるいは体系に属していたとしても、遅かれ早かれ人は皆、みずからの理性を正しく用いて、キリストの教えに耳を傾けることになるのです。それでは、キリストの教えとはいったい何なのでしょうか。
 それはすべてのものに対する愛です。


 ある哲学博士がわたしの所にやって来ました。彼は仏教徒ですが聖書も読んでいて、多くのキリスト教徒よりも、ずっと深く新約聖書を研究していました。そしてわたしに、「たった一つだけ納得がいかないことは、イエスが『わたし以外の者を通して父の元へ行くことは誰にもできない』と言った点だ」と疑問をぶつけてきました。
 このイエスの言葉は、仏教徒やヒンズー教徒やイスラム教徒、あるいはアボリジニの自然信仰者たちは、キリスト教を受け入れなければ決して神に近づくことはできない、ということを意味しているのでしょうか。

 わたしは彼に、「誰しもその内側に『この世界にやって来るすべての人間を照らし出す光』を持っているという意味において、人間は一人一人既(すで)『クリスチャン』なのだ」と言いました。

 キリストとしての性質を表現している人は、誰も一人の「クリスチャン」です。それゆえに仏教徒であっても、イスラム教徒であっても「クリスチャン」であるかもしれません。また、たとえ偶像崇拝者であったとしても、「自己に覚醒した意識」を表現しているのならば、彼らは「クリスチャン」なのです。逆にキリスト教徒であると自称している人々の多くが、実際にはクリスチャンではないのかもしれません。大切なものはその人の本質であって、その人に貼り付けられたラベルではないのです。

 キリストの教えとは、「絶対なる存在」に感謝し、「絶対なる存在」を愛することです。あなたの心と魂と力のすべてを尽くして愛することです。

 更にイエスは続けてこう言います。
 「隣人(りんじん)を自分のように愛しなさい。ただ愛することです。愛以外に何もありません。」

 「マインド」を理性として使いこなしている人は誰でも、遅かれ早かれ「人生とは愛である」ということに必ず思い至ります。人は愛するしかないのです。愛の教えを聞く者は、必ず群れに入って来ます。キリストが言いたかったことは、まさにこのことなのです。

 今は自分のことをクリスチャンとは思っていない人々もいるかもしれませんが、そういう人々も、すべてのものに対しての愛を教える「良き羊飼い」の囲いに属しているのです。

『キリストのたとえ話』より
ダスカロスはイスラエルに程近いキプロスに生まれました。その使命の一つは、少しでもあの地に渦巻く憎悪のエレメンタル(気魂)を鎮めること世界に渦巻くエレメンタルを鎮めることだったんだと、そう思いました。ダライ・ラマ14世も「良い羊飼い」の一人なのだと感じています。中国への憎悪を抱くとそれが形として現れてしまう。憎しみの感情は捨てる。反省です。

所々に挿入してある画像は映画『パッション』からのものです。この映画はさまざまな物議をかもした作品だといわれていますが、私が観た印象では「母と息子の絆」「母の愛」「勇気」を貰いました。とても力強い『情熱』を感じました。素晴らしい映画です。

マグダラ役を熱演した『マレーナ』で主演したモニカ・ベルッチもとても素晴らしかった。イエス役の『オーロラの彼方へ』で主演したジム・カヴィーゼルが輝いていた。アラム語にも感動した。「ヨハナンよ、その婦人は母である」というセリフが「息子よ」になっていたのが残念だったです。
パッション
パッションメル・ギブソン

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stars心に残る何かがある
starsキリストの愛
starsキリスト最後の晩餐。
stars十字架が完成したもの。
stars感想

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『オーロラの彼方へ』もすごい感動できる作品で、とてもお気に入りです。
オーロラの彼方へ
オーロラの彼方へトビー・エメリッヒ

おすすめ平均
stars想いは時を越える
stars一番好きな家族映画
stars感動します
starsMY映画ランキング1位です。
starsFREQENCY周波数

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ゆっくり読ませて頂きました(^^)

大学時代にキリスト教学という授業で聖書を読んだのに、
当時はそんなに注意して意味を考えていなかったことを痛感しました。(^^;)

この考え方によると、私も努力次第ではいつか立派な「クリスチャン」になる日が来るかも。
(ちなみに、私は仏教徒ですが、仏教でも「人は誰でも“仏性”を持っている」と説いています。)

>「絶対なる存在」に感謝し、「絶対なる存在」を愛することです。
>あなたの心と魂と力のすべてを尽くして愛することです。

これを少しでも実践していけるようにしたいです!
各国のリーダー達も実践してくれたら、平和な世の中になるんでしょうねぇ!
| Otraさん | 2008/04/20 6:51 PM |
たぶん、Otraさんも本文のなかの哲学博士と同じで仏教徒でありながら、
このお爺さんの話す「クリスチャン」になれるのかもしれません。

もしかしたら、クリスチャンよりクリスチャンかもしれませんけど。

このお爺さんは敬虔なギリシャ正教会のクリスチャンでありながら
『「主よ、主よ」と唱えるクリスチャンより無神論者の方が神に近い』と
話しているところもあります。

ある意味わかる気がすることもあります。
その中で僕のなかでは中田英寿は、その代表格かもしれないなと。
カテゴリを設けています。
中田はスピリチュアルも神も信じない、宗教も信じないと語っています。
でも、活動していることは…報道などでご承知のとおりなのです。

世界各国のリーダーには実践してもらいたいですね。
僕らも実践で。
| テルテルさん | 2008/04/20 7:33 PM |










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